音楽の成績が2でも音楽は創れる
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今日はウナです。

今年から新しく挑戦を何にしようか考えていたところ、 去年の年末から作曲初心者に対する midi 素材の提供をしていたのですが、実際にどうやって音楽を作っていけばいいのか。

本当の初心者というのは、そこから知りたいんじゃないかなと思ったのが今回の挑戦のきっかけになりました。

というのも、 私自身がそうだったのですが、小学校中学校と音楽の成績が2が基本で、3以上取ったら奇跡という感じの成績(;´・ω・)

正直今でも難しい音楽理論なのはよく分かっていないのですが、 メロディーではない部分の経験値はドラムとパーカッションを通じて23年間蓄えてきました。

良いか悪いかというのは全て頭の中に記録しているメロディーの経験によって今では判断しています。

つまり基本的には感覚で音楽を作っているので、ちゃんと共通言語となる理論という形としては正直そんな理解はしていないです。

話している、知っている事が実はすでにある理論となって確立している、という感じです。

つまり理論から学んでるわけではなく現場で学んで自分の中では理論は後付け。

ただ自分の中でそれらか非常に良い精度で成立しているのは、今まで出会った素晴らしい共演者達との時間がそれを可能にしてくれました。

まずはあなたにも音楽が創れるということを感じてもらうために、私がどれぐらい音楽が理解できていなかったのかお話ししていきますね。

すべては感覚で丸コピーをしていた

小学校からの音楽の授業になると 合唱曲をうたう時に各パートに分かれてメロディーを覚えますよね。

教科書を見て先生がピアノを弾いてこの音を出すんですよと教えてくれると思うんですが、全くその辺意識をしていなかったんです。

何をしていたかと言うと、となりの友達が歌っている音程とリズム、それを聞いて頭の中でイメージトレーニングしてそのまま再現をするということをやっていたんです。

イメージで分かりやすく伝えようとすると、リズムゲームで上からこのタイミングでボタンを押してくださいというゲームがあると思うんですが、その感覚そのまんまです。

ただ厄介なことに、リズム感は皆無でした(笑)

多分このぐらいのタイミングだろうというところで歌って、隣の子が歌ってるメロディーってこのくらいかな?という感覚で歌っていました。

今思うとかなり音楽について理解をしようとしていなかったなと思っています。



なので、歌のテストをする時に一番最初にテストを受けると全然ダメダメなんですね。

自分と同じパートの人が先に一人でも行ってくれているとちょっとマシになるんです(笑)

待ってる間に頭の中でずっとさっきの子がやっていたのはこうだこうだという感じでイメージしてテストに臨んでいたからです。

つまりピアノの音とか関係ないんですよ。音階とか全然理解していなくて誰かのリズムと誰かの音階を頭の中で一生懸命焼き付けて音楽の授業に参加していました。

そしてそもそも音楽の授業がそんな好きじゃなかったんですね。

だって理解してないことなのでつまんなかったから。

それよりも当時の自分の関心は絵を描くことにありました。

父が絵を描く趣味を持っているので小さい頃から絵の書き方はなんとなく分かっていたし、兄二人が交換マンガ日記というものをやっていた家来家族の中で絵の存在感というのは非常に大きかったです。

ただ二人の兄の絵に対する感覚が素晴らしすぎて芸術を目指すのはちょっと無理かなとも感じていました。

長男は有田焼の絵師のところに学校を出て行けるくらい才能もありますし。

次男は美術年鑑にも掲載されるぐらいの才能を持ってます。

私の唯一の成果と言えば中学校の時に応募した絵画がベルマークコンクールで優秀賞を取って、地味に新潟日報に掲載された事ですね。

なのでその二人とは別の道を行こうと思って工業大学の道に進んだのですが、大学の最初のオリエンテーションの時の隣の席に座って仲良くなった同級生に連れられてモダンフォークソングクラブという音楽の部活に連れられて見学に行ったのが キッカケです。

この時に初めてバンドというものをしっかりと認識したんですね。

それまでバンドというものを認識するということはなく、 デートでコンサートに行った時にバンドで演奏していたはずなのですが、意識はボーカルだけに向いてました 。

大抵の人はバンドはあまり意識しないでボーカルを聴いてるんじゃないでしょうか、ほぼその感覚だと思ってもらって間違いないと思います。

後は高校生の時に、仲が良かった阿部君に「ウナ!バンドやろうぜ!LUNA SEAの曲のドラム叩かない?」

と言われていたのですが、バンドってよくわからないし怖そう。。。と、乗り気じゃなかったので断ったくらいのレベルです。

なので、見学に行った時もただの付き添いで行ったぐらいの気持ちのレベルです。

ただの付き添いで行ったぐらいのレベルだったのですが、目の前で楽器というものを見てこうやって音楽ってできるんだ! と、初めて生演奏を体感して感動したのを 覚えています。

そして、耳が「キーーーーン」って一日中なっていたのも覚えています。

もちろん見学なので先輩に楽器を触らせていただけるのですが、私の左手中指は障害があるのでギターの弦とか抑えられなかったんです。ベースも上手に抑えられない中、ドラムは関係なく叩け叩けたのでめっちゃ楽しくなったんです。

この瞬間がドラムと出会った瞬間

ただ実際に同学年で体験入学でバンドを組む!となった時に既にドラム経験者がいたんですね。

なのでこの時は楽器未経験者という事でボーカルを担当しました。

この時やった曲がSOPHIAの『Kissing blue memories』 とLUNA SEAの『TRUE BLUE』。

今までと同じように徹底的に原曲を聴いて合わせて歌を覚えました。

ほぼほぼ24時間この2曲を延々にリピートしていた記憶があります。




この2曲から歌とリズムと楽器のメロディーがちゃんとバランスよく構成されていないと気持ち悪いということを体で感じたんですね 。

カラオケで歌っていてもなんとなく音程がずれていたりリズムがずれていてもまあ自己中なので気にすることはないんですが、バンドとなるとそうはいかなかったんです。

体の後ろからドラムのリズムがしっかりと響いてくるしベースとギターの音が 歌のメロディとズレるとなんか気持ち悪いんですよ。

その気持ち悪さを理屈で理解したのはこのモダンフォークソングクラブの平和(ピンフ)というコーラスを部員全員で歌う練習の時に、音楽指導担当の先輩から

「コードのこの部分を担当して歌っているんだよ。このコードで鳴っている音以外の音程になると駄目だからね。んで、低音担当のメロディはこの音だからね!」

と、コードとメロディの関係性を教えてもらったのがしっかりと認識した最初です。

「そしてコーラスだけど、ウナちゃんはメインメロディーの3度下の音階を歌ってね!」

と教えてもらったのがコーラスのメロディを理屈的に教えてもらって認識した最初の瞬間でした。←小学校の時教えてもらってたはずはのにね

コーラス出来るとカッコイイ!

それまでコーラスを歌ってハモれるなんてなんてかっこいいやつらなんだ!

とコーラスができる人を神扱いしていました!

正直今でもコーラスはそんなに得意ではないです(笑)

ただ、この時にコードを聴いてメロディーラインをしっかりと取る!という事を意識できたのはラッキーでしたね。

改めてメロディー楽器が弾けないので、部室にあった右利き用のギターを 逆に持って左利きと同じスタイルでコードを覚えたのが自分の意志でメロディー楽器を弾いた最初の瞬間です。

このモダンフォークソングクラブには正式に入部したらオーディションという名の弾き語りを新入部員全員がやることになっていました。

これはパート関係なく全員が!です。

この時引いたのが少年ナイフの『バナナチップス』と音楽の教科書で苦し紛れにキーボードで弾いた富士山です。

選曲のギャップが凄い(笑)

本当は好きなLINDBERGとか歌いたかったのですが、コードが難しかったから断念!

この時は和音というのがどういう組み合わせでできているのか考える余裕はなくただひたすらコード弾きを練習していて記憶があります。

この時はただただひたすら恥ずかしさが溢れて終わった時の爽快感は今までにないものでしたね。

正式な入部とともにドラムになった

正式にモダンハウスにクラブに入部した時に体験入部の時にドラムを担当していた人が他の軽音部に入部してしまったのでドラムがいなくなりました。

そこで「ドラム楽しかったなー」という思いからドラムを叩くと手をあげたのです。

 そしてこの瞬間別の思いも頭の中に入ってました。

バンドやってたらモテるようになるんじゃね?というとても欲望に素直な想いです!

実際にはそんなことはなかったんですけど(笑)

改めて正式に入部して1年生だけで組み上げたバンドでやった曲がとても初心者がやるような曲ではなかったと思います。

何をやったかと言うと、GLAYの 『Freeze My Love』という途中でツーバスが入る曲です。確か曲のテンポは105だったと思う。

今なら片足で踏めるけど、ドラム始めの曲が要ツーバスって今思うとえげつない!



リズムも良くないのに大丈夫か俺!

という事で曲が決まった日に隣町の島村楽器で今はもう廃版になっているノンブランドのツインペダル、確か。。。8千円くらいだったと思います(激安!)を購入して毎日ツインペダルを踏むためのトレーニング、そう、まさにトレーニングを始めました。

やったことは、

・歩く速さをメトロノームに合わせて歩く

この時には一日の半分はメトロノームを聞いて生活していたと思います。

・靴を鉄板が入っている安全靴にして、靴底にはソフトシューズウエイト、足首にもウェイトを付けて、かかとをつけない(浮かして)生活をしていました。

大学の講義の時に座っている時には今度はカカトをつけて足先を上下に反復する運動。1講義が90分だったので、90分を確かテンポ100くらいで適当に動かしていたと思います←講義中にメトロノーム聴いていたw

・実際にツインペダルをテンポ60から着実に踏んでいく練習。

こんな事になりながらも何でそこまでやったかというと、ひとえに交流校の女子大軽音部との合同合宿でカッコいいところ見せたい!女子の前で演奏できなくてカッコ悪いのいや!

という単純なパワーですw



そして、同時にツインペダル行けるならとギターのゆうゆうの提案(だったと思う)の選曲でHELLOWEENの『Power』をやることがキッカケに3年間HELLOWEENを中心にメタルを演奏していましたね!

そして、メタルってコーラスラインがめっちゃカッコいいんですよ!

ギターのユニゾンもカッコいいし!

なので、血沸き肉躍るような演奏が私の演奏の基盤になっていますね!

そこから大学のOBの大野先輩(ドラムの先輩)に1年生の夏休みの時に

「どうせやるならプロ目指しな!」と言われて

「あ!プロ目指していいんだ!」となったのは大きな一言でした。
この時が1日10時間以上の練習をしてドラムの基盤になっている、いわば技を磨いた時期です。

ちなみにこのモダンフォークソングクラブ、フォークソングクラブと言いながら、プロドラマーの輩出率が高いのです!大野謙先輩(現RCC講師)と山地厚臣先輩(現RCC講師)と接点あったのが影響大きいですね。

その大野先輩の紹介でRCCドラム教室に少しの期間お世話になったのですが、その時に出会ったイノさんに連れられて大塚のBeatles LiveBar BACKBEATに行ったのがキッカケでこのBACKBEATに週5で通ってドラムを叩いてお客さんに奢ってもらう!
という生活を半年くらい。。。むしろ寝泊まりしていました(笑)

この時にビートルズ、ストーンズ、スコーピオンズ、ディープ・パープル等のセッションが毎日行われて、毎日のように叩いていましたね。このとき22才くらいかな。←大学どうした!

この時出会った一番の経験はギターリストのたくぼーさんとの出会いです。セッションバンドということでドラムに呼んでいただいたんですが、フォーク時代のアイドルと言われていた鈴木雄大さんとご一緒する事は出来たのが非常にでかかったですね。

鈴木雄大さんは CM ソングとか多数、MISIAさんのヒット曲『飛び方を忘れた小さな鳥』の作曲者でもあり、ツアーメンバーでもあった人でとにかくスゲー懐のでっかいアニキ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木雄大

これ↓は雄大アニキの中で自分が好きな曲

同時期にセッション感覚でCoccoのコピーバンドをやっていて、ドラマーの向山テツさんのプレイに出会ったきっかけになった時期です!

全身を打ち付けるように叩くテツさんの姿に衝撃が走りましたね!そしてCoccoの世界観にも魅了された!

歌姫というよりも、歌手が歌っているものとは別次元のベクトルを向いている唄と言っていい。まるで巫女さんが神様に唄を捧げるようにうたっているCoccoは今でも唯一無二の存在です。

エモーショナル爆音ドラムスタイルの始まりです(笑)

恋愛と音楽が非常に密接につながっていた時期でもあり、失恋にCoccoが繋がるとヤバいですね!

今でこそ笑い話ですが、当時の彼女と別れた時にこの曲を叫びながら終電で北春日部駅から東部動物公園駅の間をひと駅走りながら帰った記憶がいまでも残っています(笑)

それまでドラムはフレーズだ!と思っていたスタイル、考え方から、ドラムも想いをのせて演奏するものだ!に変わったきっかけ。曲によっては想いを込めて泣きながら叩けるようになった転機です。

大先輩ミュージシャンにバンドで鍛えられた時期

それからドラム教室を開催していた楽器屋さんの店員さん達とバンドを組むきっかけがあったんです。

年齢的には十歳ほど年上の方達ばかりで、私をメンバーに入れてくれた理由を聞くと、若い感覚を取り入れたかった!というのが理由だったと強く覚えてます。

今ならその感覚は非常によく分かりますね。

この時にちょこちょこお話などさせて頂いてたのがアースシェイカーのマーシーさん。

この環境に犬神サーカス団の方もいらっしゃるとか意味が分からないぐらいレベルが高い人たちと一緒にやっていたという印象しかなかったです。

このバンド初めて見学に行った時に叩いていたのがサーベルタイガーのドラムの方とか、前のドラマは村上コ-ジさんとか 。普通に雑誌で見る有名人で笑うしかなかったです(笑)

そしていちばん自分の力のなさを思い知らされたのが、ボーカルのほうが僕よりもドラムがうまかった!ということです(;´・ω・)

まさに今思えば若手を育てるという感覚で接してもらってました。

スタジオの最初の30分間はドラムのチューニングだけの時間です。

「おお、ウナ、チューニング終わったら呼んでくれ!」

そして自分なりにチューニングをして呼んで 叩いて聞いてもらって音の良し悪しを判断してもらってました。

ダメだったらボーカルの人がチューニングしてました。

それで毎回チューニングをするたびによかった時は「お!今日はいい感じじゃん!」と手直しなし!

そうやってドラムという楽器のことをさらに深く知れたのは良かったです。

レコーディングも初めて経験したのもこのバンドでした。

「俺らはは一発で終わるからウナが良いテイクを録音できるまで叩きなさい !」

ほとんどのレコーディングの時間はドラムで、ギター、ベース、ボーカルは本当に1テイクOKという今思い返しても凄いレベルでした。

音楽教室で教えてることはバンドには意味がないことが実は多いんだよね!

ちょっと今、ドラム教室独特の変な癖ついてるだろう、 うちらのバンドにはそれは邪魔になるから直さないとな!

そうやって自分の楽器屋さんで営業している内容とは違うような実践的な現場のスキルを叩き込まれたのがこの時期です。

そのバンドを2年弱ほどお世話になってから、結成したのがINDIE28というバンド。

ドラムの先輩の紹介でドラムを探している奴らがいるからちょっと合ってみない?

これがキッカケでした。

最初はNirvanaの『Smells Like Teen Spirit』から手合わせして、BjorkやCoccoを聴くようになり、エモーショナルな音楽と言われる方向に向かっていきましたね。

Sweetest Records

このINDIE28が参加していたのがSweetest Records(現、SweetestGROUP)という埼玉県川口近辺で活動していたレーベル。。。だと認識。

正直代表のクラカワさんとはこの時期はメンバーが深く関わっていたけど自分はあまり深く関わっていかなかったなぁ。という感覚、むしろ今の方が連絡取れている。

非常に独特な方針を持っているなと感じたのは、バンドが会社で、会社同士で提携するという考え方、その仲間が集まって先輩バンドが後輩バンドを導く!という環境でした。

自分たちでMTR(YAMAHA AW4416)を購入して、レコーディングして、夜な夜なファミレスに集まってミーティング、集客のため、未来の夢の為のマーケティング・成功哲学を学びました。

これ↓はたぶんYAMAHA AW4416で録音していたかな?Protoolsかな。

INDIE28の「Cross counter」↓

この頃のバイブルは「思考は現実化する」!「ナポレオン・ヒル プログラム」ですね!

そういう良い意味での「手創りな音楽」と音楽シーンを仲間と創り。

ネットのない口コミのみで1500人キャパの渋谷AXでイベント開催、TV取材もあったのを覚えています。

30分くらい喋っていたベースのアクティが放送では一言だけだったのに10分くらい喋っていたボーカルのリョウがほぼ使われていて特に!あぁ、これがテレビかぁ!と。

この時非常に影響を受けていたのはゲストでイベントに出演をしてくれていたGARIさんと小次郎(今はkojirou)

メッチャカッコ良くて、GARIのギターの独鈷さんは呑みに誘ってもらったりと最高のアニキです。

INDIE28はめっちゃGARIアニキと小次郎の影響を受けましたね、この時代に教えたこと、教わった事は今の自分にとっての大きなリソースになっています。

そしてこの時期が爆音ドラムの最高潮の時です。ライブ本数も年間260本くらいやっていました!

ドラマーにだけわかるように書くと、16クラッシュの所に、ZiljianA20ライド、18クラッシュの所に
Istanbul Agop22ライド、ライドの所にZiljianアースライド、右に遠隔ハイハット(ボトムに20チャイナ、トップに18クラッシュ)、スティックにはマーチング用のふっといスティックでライブやったりレコーディングしたりしていました(笑)

kojiro iv

自分が一番好きな小次郎の曲↓

集客ノウハウの基盤ができた時期ですね。24歳くらい

それと音楽に言葉は必ずしも必要ではない!という事も体験的に理解した時期です。

ちょっとホームレスからの出会い

そこからバンドを離れたときに、住む場所が無くなった時期が1ヶ月ほどホームレスに!

お金なくても音楽あれば大丈夫という人多いと思いますが、実際にそれをやっていた時期です!

と言っても昼間はバイトして、夜は朝まで色々なお店で飛び込み演奏していて、音楽があれば生きていける!
と思っていたので演奏しながら寝床を転々としていました。

実際にバイト代20万円を翌日スネア購入に投入して1ヶ月3000円の食費、移動は片道30キロママチャリ移動とかしていましたw

その中の演奏ができる焼き鳥屋さんで出会ったのが、今もやっているバンド「ノアの箱舟(Yamaguchi Brothers BAND)」のボーカルのやまちゃん(当時50歳)。

ノアの箱舟

酒を呑んで演奏して意気投合して「今家がないんですよね~」

と言ったら、「じゃぁ家にくればいい!」と言って、翌日電話して押しかけました!

ホームレスからの卒業です(笑)

あとから聞いた笑い話ですが。

やまちゃんはクリスチャンなので教会に行っていて、教会の中で

「やまぐちさんって若い男の人と一緒に住んでいるらしいわよ」

「あらぁ、そうなの」

「やまぐちさんってホ〇なの?」

「どうなんでしょう」

という噂が飛び交っていたそうです、スマヌ!

まあそれは置いておいて、 今では東京の親父と思うくらい大事な人になっています。

やまちゃんは元々経営者で商売をたたんで埼玉に来ていて、この時期に色々な商売の方法を教えてくれました。

相手との駆け引きや物事の見せ方、そして何よりもデザインセンスが抜群にいいので今でも相談させてもらうときがあります。

実際に毎年一回行われるチャリティーコンサートでは300人以上の結果を出し、それに至るまでの仕込みや準備すること大事なポイントを学びました

ノアの箱舟

そして気が付いたらルームシェアをして3回一緒に引っ越しをして3年間という月日が経ってたんですね。

最近では福山雅治さんのツアーでサックスを演奏されている前田サラさんにもゲスト出演してもらったり、広い交流があるバンドです。2021年現在も活動しています。

アコースティックの時代

出会ったキッカケは忘れたのですが、多分セッションとかしている時に出会ったのが今でも腐れ縁と呼べるアーティスト、古代文字書歌の村守水分、通称すいぶんです!

村守水分

最初はドラマーとして呼ばれて1畳にも満たない手作り防音ブースでドラムをRecするところから始まったのですが、なにしろ爆音のメタル、ミクスチャーを叩いてきたので爆音なわけですよ。

めっちゃキレられましたね(笑)

そこで試行錯誤の末、辿りついた答えが菜箸で叩く!でした。

これが正解で、通常のスティックでは爆音過ぎて近所迷惑になっていたのも解決!

ドラムセットもタムを改造したバスドラ、スネア、ハイハット、小さなシンバル1枚

という音量ではなく「ドラムのビート」で聴かせるドラムを追及した時代です。

ドラムは爆音で音出してなんぼのもんだ!

と思っていたので、徹底的にそれまでの価値感が覆された時です。

とにかく防音ブースとはいえドラムはうるさかったので、徹底的に小さな音でキレの良いビートをこの本で追求しまくっていましたね!

歴史に残る100のファンク・ビートを集めて 100フェイマス・ファンク・ビート

この頃にも多くの先輩ミュージシャンと一緒に共演させていただいたりとか素敵な経験ができたときです。

主にソニー系列のミュージシャンの方とか、オリコンランキングトップの方、紅白出場のミュージシャンの方とかコッソリとご一緒に演奏、制作させていただきました。

この時はもう基本的にはカホンを中心に使ったパーカッションのセットを使って演奏するスタイルがメイン。

楽曲におけるアンサンブルの考え方、他のパートとの兼ね合い、そしてよく続いたなと思うのが水分との毎日レコーディングです。

午前中にうた本の中から適当に選んで、 YouTube でメロディーを聞いて、それを基に二人でアコースティックの録音をしていました。夜にはミックスまで終わらせてよかったテイクはライブの時に披露したりなどしていました。

お互いにお互いのパート理解するためにパートチェンジをしてお互いのパートを教えあうということもしていたのもデカかったですね。

そして事務所件生活スペースとして、水分とチームを組んで音楽活動をするためにのルームシェアを3年間行なってました。

朝起きて曲を決めてレコーディングをして、そしてバイトに行って、帰ってきたらミックスなどをする!というような毎日です。

この音源のドラムは1畳のボーカルブースに改造バスドラにハイハット、スプラッシュシンバル、使っていたスティックは菜箸のレコーディングです。

再びバンドでのドラムを叩き始める

それからやっぱりドラムでがっつり叩いて演奏したいという気持ちも気持ちのどこか奥底でくすぶっていたのでサポートドラム募集について mixi に書き込みをしていた募集を見て応募したのがナナカラットでした。

そして、女性ボーカルバンドでのドラムの叩き方、歌を活かすフレーズを研究して身につけた時代です。

とにかくバンドへの情熱が非常にアツい二人だったなと今でも覚えてます!

そのバンドのやり方は私が今まで経験してきたものとはまた違う方向性で、非常に納得がいくやり方をしていたのでとても新鮮だったんですよ。

当時の活動についてはGREE公式ブログが何故かまだ残っているのでこちらで!

UNA GREE公式ブログ

そこからコンテストのグランプリ入賞とか CD の制作アルバムの制作、楽曲制作、全国ツアーや、東日本大震災の復興支援のためのわらしべ長者企画を立ち上げて メンバーがニコニコ生放送でシングルCDから物々交換して漁船までたどり着いて、そしてその漁船を台風と台風の間の期間に伊豆大島から出発して岩手の吉里吉里港までメンバーで乗って行ったというのが今までの人生の中で最高のアトラクションと言ってもいいですね。

どの遊園地に行ってもあれ以上のスリルは味わえないでしょ(笑)

「落ちたら死にます。台風来ているし救命胴衣があっても100%死にます。」

「じゃあこの救命胴衣って何のためにつけるんですか?」

「家族の元に帰るためです!」

と言われた時これマジでやばい奴だと思いました(笑)

今、自分がやるべきことは何か、何が必要で余計な事はしていないかという事はここで強く感じれたのは本当に素晴らしかった。

今現在振り返っても一番音楽で燃えた時期で、思考のベクトルも意識も情熱も飛びぬけていた。正直、これ以降命かけて全力を注ぎ合う事ができるメンバーにこの文章を書いている時点で未だ出会えていない。今でもリスペクトしているメンバー。バンドに命かけるってこういう事だろ!という活動していた時期です。実際に漁船移動中は命かかっていたし(笑)

しかし、事情があり、バンドを離れる事になったのだが、その時に出会ったのがDream Kingdomの王子である。

Dream Kingdomでプロデューサーになる

この記事を書いてる時点でプロデューサーになってから実際7年目になるんだが、プロデューサーというものになったことがなかったので最初はとっても試行錯誤をしながら考えて行動してました。

ただ普通のバンドマンと違ったのは、後輩のバンドに指導をしていたりとか、戦略的なことも学んで実行した経験があったりとか、相談できる素晴らしいプロミュージシャン、先輩プロデューサーの方々がいたからというのは大きいですね。

ちょっとここまで長くなったので、続きは別の記事で!

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